子供の頃から、俺は本というものが苦手だった。
活字だけが並んでいる本がとにかくダメだ。長時間、ページをめくって字を追っていると落ち着かなくなる。胸の鼓動が高鳴り、手のひらに汗をかき、しまいには気分が悪くなってくる。恐怖症と言ってもいいかもしれない。
学校ではずいぶん苦労させられた。なにしろどの教科書にも活字がある。授業を聞いてノートを取る分にはさほど問題もなかったが、教科書を熟読しなければならない英語や現代文の成績はさんざんだった。「長文読解」という言葉を目にすると、未だに首筋の毛がざわざわ逆立つ。
母親や教師に話したこともあったが、本が嫌いでも仕方がないと慰められただけだった。人には向き不向きがあって当然、それほど気にすることはないよ。
気持ちはありがたかったが、まったくと言っていいほどの誤解だった。俺は読書が嫌いなわけではない。読みたいのに読めなかっただけだ。読もうとすると体が拒絶するのだ。
誤解が解けなかったのは説明が下手だったせいもあるだろうが、俺の見た目がいかにも読書からほど遠かったことも原因に違いない。どこへ行っても人並み外れて背が高く、体つきもいかつい。誰が見ても知力より体力で勝負するタイプだった。運動会や体育祭では必ず選手をやらされていたし、体育会系の部活から勧誘を受けることも珍しくなかった。
しかし、俺はスポーツにあまり興味はなかった。本を読みたかったのだ。学校ではしょっちゅう図書委員をやっていた。皆の嫌がる本の整理がまったく苦にならなかった。当時の俺の楽しみは、書架の端から背表紙を順番に眺めていくことだった。中を開かずに想像するだけなら問題はない。
ところで、この「体質」は生まれつきのものではない。原因には心当たりがある。それが『漱石全集』にまつわる話の、俺にとっての発端ということになる。
あれは小学校に上がる直前のことだ。こぬか雨の降る春の日、俺は二階の居間で一人本を読んでいた。
一応、俺の実家について説明しておく。
実家の場所は大船(おおふな)だ。大船という土地は横浜市と鎌倉市のちょうど境で、東京からJRで鎌倉観光へ行こうとすると必ず通ることになる土地だ。
大船駅近くの小高い丘には、上半身だけの巨大な観音像が建っている。ライトアップもされていて立派なのだが、木々の間からぬっと白い顔を出している姿はちょっと不気味でもある。薄目の観音に二十四時間見つめられていることを除けば、あまり特徴のない地味な住宅街だ。
昔は観音像の他にもう一つ珍しいものがあった。日本有数の映画撮影所だ。俺が中学生の頃に閉鎖されてしまったが、かつては日本映画の黄金期を支えていた、と祖母からよく聞かされていた。映画に詳しくない俺にはよく分からないが。
撮影所の目と鼻の先にある「ごうら食堂」が俺の家だ。グリンピースの載ったカツ丼が沢庵(たくあん)と一緒に出てくる普通の定食屋だった。
俺の曾祖父にあたる人が建て、祖母が引き継いで営業していた。撮影所のスタッフで昔は大繁盛していたというが、俺が物心ついた頃には客はお世辞にも多いとは言えなかった。
店の評判が悪くなったわけではない。撮影される映画の本数が減り、それにつれて撮影所で働くスタッフも減ったのだ。祖母は店員を雇わずに、一人で店を切り盛りするようになっていた。
俺たちは食堂の二階に住んでいた。祖母と母と三人暮らしだった。父は俺が生まれる前に他界し、母は実家に戻って俺を産んだ。ちなみに「大輔」と名付けたのは祖母だ。
母が横浜の食品会社で働いていたので、しつけはほとんど祖母の担当だった。箸の上げ下ろしからお辞儀の角度に至るまで、一つ間違えると十の説教が飛んでくる。唯一の男孫だったが、甘やかされた記憶はまったくない。
祖母は顎がふっくらして柔和そうなのに、目つきだけが変に鋭かった。山の上の観音様にそっくりの顔立ちだった。
さて、さっきも書いたように、その日の俺は二階の居間で一人で絵本を読んでいた。確か『ぐりとぐら』だったと思う。この日この時までは、本が大好きな大人しい子供だった。絵本だけではなく、ふりがなつきの児童文学も少し読んでいた。本屋に行くたびに新しい本をねだっていた記憶がある。
家にある本を読み飽きて、俺は退屈していた。ランチタイムがもうすぐ終わる頃で、階下から客同士の話し声やテレビの音声が聞こえてくる。外へ遊びに行きたかったが、雨が降っているのでそれもできなかった。
居間を出た俺は、廊下の突き当たりにある祖母の部屋へ向かった。そこは北向きの小さな和室で、天井が妙に低い。この家は建て増しの繰り返しで、ところどころおかしな間取りになっている。
なるべくこの部屋に入らないように祖母から言われていた。しかし、俺には目的があった──本を探しに来たのだ。
和室の壁一面に大きな本棚がそびえている。並んでいるのはもちろん祖母の本だった。観音菩薩(かんのんぼさつ)似の祖母も、結婚する前は可憐な文学少女だったらしい。店の手伝いで貰った小遣いはほとんど本に消えていたという。
祖母が集めていたのは主に明治や大正の古い日本文学だったが、その頃の俺には本の中身など分かっていなかった。これだけ数があるのだから、ひょっとして子供向けの本があるかもしれないと期待して来たのだった。
俺は並んでいる本を引っ張り出しては中を確かめていった。まだ漢字を読めない頃だった。出した本を棚に戻さずにそのまま畳に積み、また別の本に手を伸ばす。そのうち本を探しているのか、散らかして遊んでいるのか分からなくなってきた。
本棚のあちこちに隙間ができ始めた頃、一番下の棚に筺(はこ)に入った小ぶりの本がずらりと並んでいることに気付いた。小さな本だから子供向けかもしれない、と妙な思いこみで顔を近づける。筺の背に印刷された書名は、残念ながらほとんど漢字だったが、一冊だけ平仮名のものがあった。俺は一文字ずつゆっくり読み上げる。
「そ、れ、か、ら」
どういう本なんだろう。棚から出してみようと筺に触れた時、
「なにをやってるんだい」
頭上から低い声が降ってきた。はっと振り向くと、割烹着(かっぽうぎ)の祖母が俺を見下ろしていた。いつのまにか二階へ上がってきていたのだ。観音菩薩を思わせる細い目に震え上がった。
俺は何十冊も本の散らかった畳の上に座りこんでいた。
ふと、この部屋になるべく入らないように、という祖母の注意には続きがあったことを思い出した──もし入っても、本棚の本には絶対触るんじゃないよ。あたしがなにより大切にしてるものだからね。
こういう時にしなければならないことは分かっていた。祖母は厳しい人だったが、きちんと謝れば許してくれた。いつだったか、食堂の椅子を並べてトンネルを作った時もそうだった。俺は正座をして、ごめんなさい、と頭を下げようとした──。
が、祖母の反応は想像を絶していた。俺の肩を乱暴に掴んで立たせると、度肝を抜かれている俺の頬を立て続けに二発張った。容赦のない大人の力だった。本の上に倒れこんだ拍子に肘と太股をぶつけた。泣き出すよりも早く、俺は再び直立させられた。至近距離から観音菩薩の三白眼に睨(ね)めつけられる。恐怖のあまりもう少しで小便を洩らすところだった。後にも先にも、祖母に殴られたのはこの時だけだ。
「……こんなもの、読んだりするんじゃないよ」
祖母はかすれた声で言い、だめ押しのように付け加えた。
「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」
俺はこくりと無言で頷いた。
正直言って、このことが本当に例の「体質」の原因なのか、心理学の専門家でない俺には断言できない。俺自身、あれが原因じゃないかと思い当たったのは成人してからだ。
はっきりしているのは俺が祖母の逆鱗(げきりん)に触れ、以来活字の苦手な人間になったということだけだ。もちろん、奥の和室にこっそり入ることもしなかった。
祖母がいつ俺の変化に気付いたのかはよく分からない。何年もの間、一言も触れようとはしなかった。祖母にとっても苦い記憶だったのかもしれない。
俺たちがあの日のことを話し合ったのは、なんと十五年以上も経ってからだった。近所の病院に入院していた祖母を、俺が見舞った時だった。お前を殴った時のことだけどね、と祖母が前触れもなく話し始めたのだ。
「お前があたしの部屋にいるのを見て、びっくりしたんだよ。それまでそんなことなかっただろ?」
つい先週起こったことを話すような口ぶりだった。一体なんの話なのか、理解するまで時間がかかった。
話している祖母も聞いている俺も、あの時とはずいぶん違っていた。俺は人より大きく成長し、成人式も済ませていた。もともと小柄だった祖母は痩せてさらに小さくなり、体調を崩して店を休むことも増えていた。
ちょうど梅雨に入ったばかりで、外では雨が降っていた。季節の変わり目になると、祖母は偏頭痛に悩まされていたのだが、それがあまりにも長引くので入院して検査していたのだ。俺は就活の真っ最中で、会社説明会の帰りに病院を見舞っていた。スーツ姿で五歳の頃の話をするのは妙な気分だった。
「叩いたりするつもりじゃなかったんだ。あの時は悪いことをしたね」
遠くを見る祖母の目は妙に澄みきっていて、なんとなく気味が悪かった。
「勝手に部屋に入ったのは俺だろ。別に気にしてないって」
いちいち根に持つようなことではない。祖母に殴られたのは、後にも先にもあの時だけだ。しかし、祖母の表情は晴れなかった。
「今でも本を読んでいたら、お前の人生はだいぶ違ってたんじゃないかね。あたしはそう思うよ」
俺は指先で軽く眉をかいた。それはそうかもしれない。できない読書にこだわるのはやめて、大学では勧誘されるまま柔道部に入っていた。四年間で段位を取り、県の体重別選手権では上位に食いこんだ。短期間でそれなりに強くなったと思う。首まわりや肩ががっしりして、ますます体格がよくなった。
「……別に読めなくてもいいよ、今さら」
と、俺は言った。それは半分建前で半分本音だった。それなりに大学生活は充実していた──が、もし本を読むことができたら、きっと別のことをやっていたと思う。
「そうかねえ」
祖母はため息をついて目を閉じた。眠ったのかと思ったが、しばらくするとまた話を始めた。
「……お前はどんな相手と結婚するんだろうね」
「はあ?」
いきなり変わった話題に戸惑った。俺を叩いたことを持ち出したのもそうだが、さっきから妙に話にとりとめがない。少し様子が変なんじゃないか。
「結婚なんて当分先だろ」
そう言いながら、俺は開いたままのドアの外を振り返った。看護師が通りかかったら、呼び止めた方がいいかもしれない。
「本の好きな娘と結婚すればいいかもしれないよ。お前が読めなくても、きっと本のことを色々話してくれる……まあ、本の虫ってのは同類を好きになるもんだから、難しいだろうけどさ」
祖母はからかうように言った。冗談なのか意識がはっきりしていないのか、なんとも微妙なところだ。そして、ふと思い出したように付け加えた。
「……あたしが死んだら、あたしの本はお前たちの自由にしていいからね」
冷水を顔に浴びた気分だった。平静を装えるほど、俺は器用な人間ではなかった。
「な、なに言ってるんだよ……気が早すぎだろ」
ぼそぼそと言った。祖父や父は俺の生まれる前に死んでいたので、肉親のこんな言葉を聞くのは生まれて初めてだった。祖母は目を閉じたまま苦笑している。俺の動揺など分かりきっていると言いたげだった。
祖母の脳には悪性の腫瘍があり、余命いくばくもない状態だった。精密検査の結果を告知する前だったが、俺と母の態度から感づいていたのだと思う。観音菩薩の目は伊達ではなかった。
さっきから祖母がなんの話をしているのか、やっと分かった。
孫の俺に伝えておきたいこと──つまりは遺言だった。
*
祖母の本のことを思い出したのは、葬式から一年あまり後──二〇一〇年八月の暑い盛りだった。大学を卒業した俺は相変わらず大船の実家に住んでいた。昼頃にようやくベッドを這い出した時、母の声が部屋の外から聞こえてきた。
「プー輔、ちょっと来て」
会社勤めの母が家にいることに首をかしげてから、今日が日曜だということを思い出した。卒業してから、曜日の感覚がふやけたように曖昧になっている。
あくびをしながら部屋を出ると、廊下の突き当たりのふすまが開いていた。母は祖母の使っていた和室にいるらしい。
「いてっ」
和室に入ろうとして、思いきり鴨居に額をぶつける。みしっと柱の軋む音がした。
「なにやってるの、プー輔。家が壊れるじゃない」
部屋の真ん中に仁王立ちになっている母が言った。天井からぶら下がった蛍光灯の笠に頭が届きそうだ。もちろん俺ほどではないが、母もかなり背が高い。
「ここだけ鴨居が低いんだよ」
額を押さえながら言い訳する。前にも書いたと思うが、この家は増築の繰り返しでおかしな間取りになっている。低いと言ってもほんの数センチなのだが、微妙な分だけに油断しやすい。
「ぼんやりしてるからでしょ。今まであんた以外にぶつける人なんていなかったわよ」
そんなはずはないと思う。なにしろ、黒いゴムの板が鴨居に打ちつけてある。俺が物心ついた時にはもうあったから、この家に住んでいた誰かが頭をぶつけていたに違いない。俺一人がドジだと思われるのは心外だった。
「今、おばあちゃんの荷物を整理してたんだけど……」
そう言いかけて母はちっと舌を鳴らした。
「……ああもう、背が高いのが二人揃うと狭っ苦しいわね。座ろう」
促されるままにあぐらをかいて、正座した母と向かい合った。下ぶくれの顔に細い目。眉一つ動かさずにきついことを平気で言ってのける。身長を除けば祖母とそっくりだ。母には姉が──俺から見れば伯母が──二人いるが、一番似ているのは母だった。
とはいえ、当人は母親からの遺伝をちっとも喜んでいない。似ているからこそ腹も立ったのだろう。祖母と五分以上穏やかに会話しているところを見たことがなかった。母が「ごうら食堂」を手伝わずに外へ働きに出たのも、顔を合わせたくなかったからだと思う。
「もう一周忌も過ぎたでしょ。そろそろ片付け始めようと思って」
と、母は言った。腰を下ろした俺たちの周りには、その言葉どおり段ボール箱がいくつも積み上がっている。祖母の着物やアクセサリーは伯母たちも交えて形見分けが済んでいて、この部屋に残っているのは誰も手を付けなかったものばかりだ。一回忌が過ぎるとなにがそろそろなのか分からないが、いつかは処分しなければならない。
俺はもぞもぞと背中を動かした。この部屋にいると未だに落ち着かない。こんな風に散らかってるとなおさら、五歳の時のことを思い出してしまう。気分を変えようと部屋を見回した俺は目を丸くする。重大な変化にやっと気付いた。
「ばあちゃんの本は?」
壁を埋めていた本棚は空っぽになっている。一冊も残っていなかった。
「本はこの中。整理してるって言ったじゃない。聞いてなかったの?」
母は傍らの段ボール箱をぽんぽん叩いた。
「関谷(せきや)インターの近くに老人ホームがあるの知ってる? あそこであたしの知り合いが働いてるんだけど、図書室を作るんで本を集めてるらしいのよ。うちに本があるけどどうですかって話したらすごく喜んでくれて、運んでいただければ何冊でも引き取りますって。じゃあ、うちでごろごろしてるプー輔に運ばせますって言って……」
「よそでもそう呼んでんのかよ……」
プー輔というのは俺のことだ。無職のプーと大輔の輔を合体させたらしい。不愉快なあだ名を広めてくれるものだ。
「本当のことでしょ。就職もしないでぶらぶらしてるんだから」
「……好きで就職しなかったんじゃねえよ」
俺の就職先は未だに決まっていない。横浜にある小さな建設会社から一度は内定を貰ったのだが、今年の二月にいきなり倒産してしまった。今も就活を続けているものの、面接までなかなかたどり着けなかった。俺は有名大学を卒業したわけではなく、体力以外にこれといった取り柄もない。この不景気も厳しさに拍車をかけていた。
「あんたはえり好みしすぎなの。自衛隊とか警察とか試験受けてみなさいよ。あたし譲りで人よりいい体格してるんだから、素直にそれを活かせばいいのに」
返す言葉もなかった。自衛隊や警察の採用試験を勧められるのは初めてではない。柔道の段位もきっとプラスに働くだろう。ただ、四年間武道をやってみて分かったのだが、俺は人と戦ったり争ったりするのは性に合わない。体を動かすのは苦にならないが、市民の安全とか国の平和を守るより、もうちょっと地味な仕事に就きたかった。
「で、本のことだけど」
俺は話題を変えた。公務員を目指す話は、とりあえず後回しにしたかった。
「ばあちゃんが大事にしてたもんだろ。無理に寄付なんてしなくても……」
「いいのよ」
母はきっぱりと言いきった。
「『あたしが死んだらここの本は自由にしていい』って言ってたんだから。あんた聞いたことないの?」
「あるけど、処分しろって意味じゃないんじゃないか」
自由に分けていい、つまり大事に取っておいて欲しいという意味かと思っていた。しかし、母はやれやれと言いたげに首を振った。
「あんた分かってなかったのね。『どんなものだってあの世まで持っていけるわけじゃなし』があの人の口癖だったんだから。おじいちゃんが死んだ時だって、残ってたものをさっさと処分しちゃったわよ。そういう考え方の人だったの」
そういえば、祖母が祖父の形見らしいものを持っていた記憶がない。祖父が亡くなったのは遠い昔、母が小学校に上がったばかりの頃だと聞いている。ちょうど今ぐらいの暑い季節に、川崎大師(かわさきだいし)へお参りに行った帰りに交通事故に遭ったらしい。
「あんたが読むなら話は別だけど?」
いや、読まない。というより読めない。どうせうちに置いてあってもここに並んでいるだけだ。読んでくれる人の手に渡った方がいいかもしれない。
「じゃ、俺が車で持っていけばいいのか」
俺はぐるりと部屋を見回した。本棚から降ろされたものの、段ボール箱に詰め終えていない本が畳の上に散らばっている。それらを箱に収めるところから始めなければならない。
「そうなんだけど、その前にちょっとあんたに相談したいことがあって」
母は傍らに積んであった本の一部を俺の目の前に移動させた。全部で三十冊ほど。他の本よりも小さくて薄く、少年マンガの単行本と同じぐらいのサイズだ。ささくれを撫でられたように、嫌な記憶が蘇ってきた。あの時、この部屋で手に取ろうとしていた本に違いない。『漱石全集』という書名に初めて気付いた。あれは夏目漱石の『それから』だったのだ。
「どこかにへそくりでも入れ忘れてるかもと思って、あたし一冊ずつめくってたんだけどね……」
そんなことやってたのか。呆れている俺を尻目に、母は例の『第八巻 それから』と印刷された筺から本を出した。薄いパラフィン紙に包まれた表紙をめくって見せる。
「こんなの見つけちゃったのよ、ほら!」
なにも印刷されていない見返しの右側に、細い毛筆で文字が記されていた。さほど達筆とは言えない。文字のバランスや間隔が微妙に変だった。
「夏目漱石
田中嘉雄(たなかよしお)様へ」
書きこみは二行に渡っている。「夏目漱石」は見返しのちょうど真ん中あたり、「田中嘉雄様へ」は綴じこみの近くにあった。
「これ、夏目漱石のサインなんじゃない? 本物だったら凄いわよね!」
母は目を輝かせているが、俺のテンションはあまり上がらなかった。本物だったら確かに凄いが、偽物だったら別に凄くはない。
本を受け取って開くと、古い紙の臭いがぷんと立ちのぼった。活字の羅列を眺めているとみぞおちのあたりが冷えてくる。慌てて最後の方までページをめくっていくと、発行年月日が目に飛びこんできた。昭和三十一年七月二十七日。発行元は岩波(いわなみ)書店。
「……おばあちゃんが結婚する前の年ね」
俺は首をかしげた。夏目漱石ってそんな時代まで生きてたか? もっと昔の人だった気がするが。
「この田中なんとかって人、誰なんだ?」
祖母の名前は五浦絹子(きぬこ)だ。まったく違う。それにもし夏目漱石が本当にこの人にサインしたとして、どうしてそれを祖母が持っているのか。
「知らないわよ。おばあちゃんの前の持ち主が書いてもらったんじゃない。なんか古本屋で買ってきたものみたいだし」
母は手を伸ばしてきて、ぱらぱらとページをめくった。名刺ぐらいの大きさの紙が、栞のように挟んである。どうやらこの全集の値札らしい。色あせた字で「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」と書かれている。昔の物価はよく分からないが、値打ち物にしてはちょっと安すぎないか。誰かがいたずらで書いたんじゃ──。
俺ははっと息を呑んだ。
よく見ると、値札の隅に古風な字体で「ビブリア古書堂」と印刷されている。薄暗い店の中で本を読む美人の姿が脳裏をよぎった。俺の通っていた高校のそばにあったあの店だ。
「この全集が今どれぐらいの価値があるのか知りたいのよ。値打ち物ならタダであげちゃうのももったいないし、うちで大事に取っとこうと思うんだけど。そういうことが分かる人、どこかにいないかしら。あんたの知り合いにいないの?」
北鎌倉駅の近くでスクーターを降りて、シートの下にヘルメットをしまった。
前カゴから取り出したデパートの紙袋には『漱石全集』が詰まっている。俺は数年ぶりに「ビブリア古書堂」の前に立っていた。あたりの風景も含めて、俺が高校生の頃となにも変わらなかった。車がすれ違えないような狭い道。古びた木造の建物。錆(さび)の浮いた回転する看板。相変わらず人通りはほとんどない。
きっと、祖母の若い頃からこの店はあったのだろう。新品の本ばかり買っていられるほど、定食屋の娘が小遣いを与えられていたはずがない。多くの本を集められたのは、こういう古本屋で安く買っていたからだ。考えてみれば当たり前の話だ。
俺がここへ来たのは『漱石全集』を見てもらうためだ。それに祖母がこの店に来たことがあるのか訊いてみたかった。さらに付け加えれば、高校二年の夏に見かけた美人の話を聞けるんじゃないかとちょっと期待していた。
六年前のあの日以来、ここを通りすぎるたびに店内を覗きこんでいたのだが、白髪交じりの店主が、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで働いているだけだった。用事もないのに店に入って尋ねるのも気が引けた。今日なら用事もあることだし、ついでに彼女のことを尋ねても不自然ではないはずだ。
古本屋の引き戸には「営業中」のプレートがかかっている。薄暗い店内を覗きこむと、以前となにも変わらなかった。大きな本棚がいくつか並んでいて、その向こうにカウンターがある。
カウンターの奥に誰かが座っていた。
あの無愛想な店主ではなく、小柄な若い女性のようだった。うつむいているので顔はよく見えない。俺の全身の血が熱くなった。本当にあの時の彼女かもしれない。気が付くと音を立てて入口の引き戸を開け放っていた。
店員が顔を上げる。上がりまくっていた体温が急激に下がった。微妙に伸びたショートの髪の下で、大きな瞳がぐりっと見開かれている。夏休みの小学生なみに日焼けしているが、高校の制服らしい白いブラウスを着ている。あの時の彼女とは似ても似つかない。まるっきり別人だった。
バイトの高校生──いや、ひょっとしてあの店主の娘かもしれない。少し顔立ちに面影がある。彼女は俺の提げている紙袋に目を留めた。
「あっ、買い取りですか?」
元気な声に迎えられて、ふと気付いた。俺は本を売りに来たわけでも買いに来たわけでもない。サイン入りの全集に価値があるのかどうか教えてもらいに来ただけだ。厚かましかったかもしれない。
かといって今さら引き返すのも馬鹿げている。とりあえず話だけしてみようと決めた。
本棚と本棚の間の通路にもうず高く本が積み上がっていて、俺の体格ではまっすぐ歩けなかった。足下の方にある本は引っ張り出せそうもないが、客はどうやって買ってるんだろう。
少女はカウンターの向こうで立ち上がっている。どうやら遠い後輩にあたるらしく、制服のスカートは俺の母校のものだった。夏休みに制服を着ているところを見ると、午前中に部活の練習でもあったのかもしれない。
「……買い取りじゃなくて、ちょっと見てもらいたいだけなんですけど、いいですか。昔、うちの祖母がこの店で買った本のことで」
ちょっと相手の様子を窺ったが、黙って話の続きを待っているだけだった。俺は『漱石全集』の入った紙袋をカウンターに置いて、『第八巻 それから』を取り出した。筺から中身を抜き、例のサインが入った表紙の見返しを見せる。彼女は目を細めて顔を近づけてきた。
「このサインですけど……」
「うわっ! 夏目漱石って書いてある! これ本物ですか?」
一瞬、反応に困った。まさかこっちが質問されるとは思ってもみなかった。
「それが分からなくて、ここへ来たんです」
「そうなんですか……んー、どうなんですかね?」
腕組みをしつつ俺の顔を見上げる。だからなんでこっちに話を振るんだ。
「……本物かどうか、見てもらえませんか」
「あ、今は無理です。店長がいないんで。あたしはそういうの分かんないし」
と、彼女はさらりと言った。
「店長さんは、いつ頃戻られるんですか」
そう尋ねた途端、彼女の眉間に皺が寄った。
「……入院してるんです」
少し声が低くなった。そういえば、臨時休業も多い店だった気がする。あの店主は体調がよくないのかもしれない。
「ご病気ですか」
「いえ……あの、足を怪我したんですけど……本の持ちこみがあると、あたしが病院まで持っていって査定してもらわないといけないんですよ。ああもう、すっごく面倒くさい!」
説明がいきなり愚痴になった。入院中も仕事を続けるとは驚きだ。古本屋はそういう時でも休業しないんだろうか。
「まあ、大船総合病院だから、そんなに遠くはないんですけどね。ここから自転車で十五分ぐらいだし」
「……あ、あそこか」
思わずつぶやいた。うちのすぐ近所だ。俺にとっては病院と言えば大船総合病院だった。母が俺を産んだのも、祖母が息を引き取ったのもそこだった。
「とにかくお預かりします。あたしも夏休み中は部活があって、すぐ病院に行けるかどうか分からないから、何日かかかっちゃうけどいいですか?」
俺はしばし考えこんだ。わざわざ病院まで本を運んでもらって見てもらうのも気が引ける。なにしろ「本物だったら売らない」ことになっているのだ。持って帰った方がよくないだろうか。そう言おうとした時、彼女が先に口を開いた。
「あの、ひょっとして大船総合病院によく行ったりします?」
「……うちの近所だけど」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「だったらこの本を病院に持っていってもらえませんか? あたしから連絡しときますから、その場で鑑定してもらえますよ!」
「えっ」
病院に押しかけて古本を鑑定してもらうなんて聞いたことがない。第一、この店には一銭の儲けにもならない頼みなのだ。あの強面の店主が聞いたら怒り出しそうだった。
「いや……そこまでしてもらわなくても……」
彼女はもう携帯電話を開いて猛然とメールを打っていた。俺の話をまったく聞いていない。あっという間に送信して、携帯をしまいながらにっと白い歯を見せた。
「メールしときました! これでいつ行っても大丈夫ですよ」
今さら遠慮しますとも言えない。黙って頷くしかなかった。
それから十五分ほど後、俺は大船総合病院の駐輪場に移動していた。
六階建ての白い病棟が真夏の日射しにぎらついている。十年ほど前に建て替えられてから、この一帯で一番大きな病院になった。正面玄関の前に庭が広がっているが、遊歩道やベンチに入院患者の姿はない。セミの声だけがあたりに響き渡っていた。
『漱石全集』の入った紙袋を手に、自動ドアをくぐって建物に入った。クーラーの効いたロビーは外来の患者でごった返している。
俺はなんでこんなところにいるんだ、と思いながら、外科病棟に通じる階段を上がっていった。ここへ来るのは祖母の亡骸(なきがら)を引き取って以来だ。
祖母が他界したのは、病室で話をしてから一ヶ月ほど後だった。医師から正式な告知を受けた後、祖母は最後の思い出に草津(くさつ)温泉へ行きたいと言い出した。病状が安定していたこともあり、本人の希望であればと主治医の許可も下りた。
俺と母を付き添わせて、祖母は元気いっぱいに温泉を満喫した。母との口論ですら楽しんでいるようで、病人にはまったく見えなかった。しかし一週間後、大船のわが家へ帰り着くと同時に昏倒し、意識を取り戻すことなく息を引き取った。はかったような鮮やかな往生ぶりに、親族も泣くより前に呆然としてしまった。
ナースステーション前の面会簿に名前を書き、あの少女に教えられた病室を目指す。心の準備をするよりも早く見つかった。俺は軽くため息をつき、覚悟を決めてノックをした。
「失礼します」
返事はなかった。もう一度ノックしても同じだった。仕方なくドアを細く開けて中を覗きこむ。
俺は棒立ちになった。
こぢんまりとしているが明るい個室だった。窓際にはリクライニング機能つきのベッドが置かれている。緩く起きあがったマットレスにもたれて、クリーム色のパジャマを着た髪の長い女性が目を閉じていた。
きっと読書の最中にうたた寝してしまったのだろう。膝の上で開いたままの本に、太いフレームの眼鏡が置かれていた。長い睫毛の下にすっと通った鼻筋。薄い唇が軽く開いている。柔らかい感じの美貌には見覚えがあった──六年前、ビブリア古書堂の前にいたあの人だ。少し頬の肉が落ちた気もするが、それ以外はあまり変わらない。今の方が綺麗に見えた。
ベッドの周りには古い本が何列も積み上がり、まるで小さなビル街のようだった。入院生活の暇つぶしに持ちこんだと言い訳できる量ではない。病院に怒られないんだろうか。
ふと、彼女の瞼(まぶた)が上がった。目をこすりながら、ちらりと俺の方を見る。
「……文(あや)ちゃん?」
口から出てきたのは知らない名前だった。か細く、澄んだ声にどきりとした。声を聞くのはこれが初めてだった。
「本、持ってきたの……?」
眼鏡をかけていないせいか、俺を誰かと勘違いしているらしい。とにかく黙っていても埓(らち)があかない。喉の詰まりを吹き飛ばすように無理やり咳払いした。
「……こんにちは」
今度は聞こえるようにはっきり言った。びくっと彼女は肩を震わせる。膝に置かれた眼鏡をかけようとあたふたするうちに、手にぶつかった本がベッドから滑り落ちた。
あ、とかすかな悲鳴が聞こえた。
考えるよりも早く俺の体が動いた。病室の中へ大きく跳んで片手を伸ばし、ぎりぎりのところで受け止める。さほど大きくはないがずっしりと重い本だった。白地の表紙を埋めつくすように『写真よさようなら 8月2日山の上ホテル』と印刷されている。かなりの年代物のようで、カバーの端が折れて黒ずんでいた。
我ながらいい反応だったと思う──しかし、顔を上げると彼女は毛布を胸元まで引き上げて、壁からぶら下がったナースコールのボタンに手をかけていた。大きく開かれた目には怯えの色がありありと浮かんでいる。見知らぬ大男がいきなり部屋に飛びこんでくれば誰だって驚く。慌てて立ち上がり距離を置いた。
「すいません。祖母の本のことで来たんです。北鎌倉の店に行ったら、ここへ来るように言われて……さっきメールが来ませんでしたか」
今にもボタンを押そうとしていた指先が止まった。彼女はサイドテーブルに置かれていたノートパソコンを振り返り、目を細めて画面を見る──みるみるうちに頬が真っ赤に染まっていった。
「……もっ」
も? 首をかしげていると、体を畳むように深々と頭を下げてくる。綺麗な髪の分け目がこちらを向く。人のつむじをまじまじと眺めるのは初めてだった。
「もっ、申し訳ありません……あの、妹がごっ、ご迷惑を……おか、けしまして……」
彼女は聞き取りにくい小さな声で言った。だいぶ噛んでいる。耳の先がますます赤くなった。
「わざわざ、ごっ、ご足労を……わたし、店長の篠川栞子(しのかわしおりこ)、です」
やっと事情が呑みこめてきた。さっき、ビブリア古書堂にいた少女がこの人の妹。あの少女は店長にメールを送ったと言っていた。つまり、以前とは店長が替わったということだ。
「前は他の方が店長さんでしたよね。ちょっと白髪のある」
「……それ、父です……」
「お父さん?」
おうむ返しに尋ねると、彼女は頷いた。
「去年、他界して……わたしが、跡を継ぎました……」
「そうだったんですか。それはご愁傷様でした」
深く頭を下げる。去年、俺も家族を亡くしている。彼女への親近感が増した。
「ご、ご丁寧に、ありがとうございます……」
沈黙が流れる。彼女は俺と目を合わせずに、喉元のあたりを見ている。俺の想像とは違って、内向的で上がりやすい性格のようだ。もちろん美人には変わりないが、ちょっと肩透かしを食った気分だった。というか、この性格で接客ができるんだろうか。他人事ながらちょっと心配になった。
「何年か前、お父さんの店を手伝ってませんでしたか」
と、俺は言った。彼女はきょとんとしている。
「高校生の頃、時々店の前を通りかかってたんです。近くの高校に通ってたんで」
「そ、そうだったんですか……ええ。時々ですけど……」
彼女の肩からわずかに力が抜ける。多少は警戒心を緩めてくれたようだった。
「あの……」
彼女はおずおずと手を差し出してくる。握手、ということなのか。戸惑いながら紙袋を置き、汗ばんだ手をジーンズで拭っていると、彼女がおもむろに言った。
「……本、ありがとうございました……」
全然違った。そういえば、床に落ちる前に受け止めた『写真よさようなら』をまだ持ったままだった。
「高いんですか、これ」
本を返しながら照れ隠しに尋ねる。彼女は斜めに首を振った。首をかしげているのか頷いているのか微妙なところだった。
「これは初版ですけど……あまり状態がよくないので……二十五万円、ぐらい」
「にじゅ……」
さらっと返ってきた答えに驚いた。こんな汚い本が? 思わず表紙をまじまじと見直してしまう。しかし、彼女はそれ以上の説明を加えなかった。二十五万円の本をサイドテーブルに無造作に置いて、もう一度手を差し出してくる。今度は一体なんだろう。
「……お持ちになった本、見せていただけますか」
彼女の視線の先には『漱石全集』の入った紙袋がある。おかしな用事を持ちこんだ自分にますます嫌気が差した。俺は乾いた唇を湿した。
「実はその、売ろうとして持ってきたわけじゃないんです。死んだ祖母の本を整理してたら、この全集にサインみたいなのが入ってて……ずっと昔、そちらの店で買ったものらしくて。どれぐらい価値があるものなのか、見てもらいたかっただけなんです。それでもいいですか?」
少しでも相手にためらう気配があったら、このまま持って帰るつもりだった。
しかし、篠川栞子はまっすぐに俺を見ていた。急に別人になったようだった。強い意志のこもった目に俺の方が気圧された。
「拝見します」
と、はっきりした声で答えた。
「あっ、岩波書店の新書版ですね」
手渡された袋を覗きこむと、彼女は目を輝かせた。まるで誕生日のプレゼントを開けた子供だ。最初の巻から一冊ずつ筺を外してページをめくっていく。背表紙に印刷されている作品名は『吾輩(わがはい)は猫である』とか『坊つちゃん』とか、俺でも知っているものばかりだ。
本をめくるうちに、彼女の唇に笑みが広がっていった。時々頷いたり目を細めたりしている。例の下手くそな口笛もそれに加わった。吹いていることを意識しているようには見えない。夢中になった時の癖らしかった。
(……あ、これだ)
俺の記憶に残っているのはこういう表情だった。本を読むのが楽しくて仕方がないという表情。俺はその顔から目を離さずに、静かに丸椅子を引き寄せて座った。
不意に口笛が止まる。彼女の膝に載っているのは例の『第八巻 それから』だった。難しい顔つきで見返しに書かれたサインを見下ろしている──が、そこを眺めているのはほんのわずかな間だった。ぱらぱらとページをめくって「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」の値札にぐっと目を近づける。なぜか値札の方に興味を惹かれたらしい。
篠川さんはサインの入った巻を膝の上に残し、続きの巻も順番にチェックしていく。最後にもう一度『第八巻 それから』を念入りにめくっていたが、
「やっぱり」
と、低くつぶやいて、俺の顔を見上げた。
「お待たせしてしまってごめんなさい。だいたい分かりました」
「どうだったんですか?」
「残念ですけれど、この署名は偽物です」
申し訳なさそうに彼女は言う。あまり驚きはしなかった。俺もうさんくさいと思っていた。
「やっぱり、本物のサインと違うんですか?」
「ええ。そもそも年代が違います。夏目漱石の没年は大正五年、この新書版の全集の刊行が始まったのは昭和三十一年……四十年も後です」
「四十年……」
本物か偽物かという以前の問題だ。死んだ人間が四十年も後に出版された本にサインできるはずがない。
「これって、別に珍しい本じゃないんですか」
「そうですね……この全集は廉価版として作られたものなんです。何度も増刷されていて、古書店にもかなりの数が出回っています。でも、註や解説は充実していますし、装丁も綺麗です。珍しくはありませんが、いい本だと思います。わたしは好きですよ」
まるで知り合いを誉めるように彼女は言った。表情や口調にはさっきまでの弱々しさがどこにもない。今の方がしっくり来る感じだった。もともとはこういう性格なんじゃないだろうか。
「岩波書店は日本で最初に『漱石全集』を刊行した出版社です。創業者の岩波茂雄(しげお)は漱石にゆかりの深い人物で、漱石の弟子たちとも交流がありました。彼らは協力し合って最初の全集を作り、その後も数年おきに改訂して出版してきたんです。この廉価版でも手を抜いていません。漱石の日記が初めて全部公開されたのはこの全集ですし、各巻の解説は漱石の弟子である小宮豊隆(こみやとよたか)が、この全集のために書き下ろしたものですね」
彼女の説明はよどみがない。聞いているうちに引きこまれてきた。
「あの、『漱石全集』って何回も出てるんですか」
「岩波書店だけではなく、色々な出版社から全集と名の付くものが世に出ています。最後まで刊行されずに中断されたものも含めれば、これまでに三十種類を超えていますね」
「……凄いな」
と、思わずつぶやいてしまった。
「そうでしょう。日本で最も愛されている作家と言っていいと思います」
わが意を得たというように篠川栞子は頷いた。しかし、俺が凄いと言ったのは大昔の文豪ではなく、すらすらと説明している彼女のことだった。伝わらなくてほっとしたような残念なような、複雑な気分だった。
俺は他の本とは別にされている『第八巻 それから』を見下ろした。
「じゃあ、この本のサインって、ただの落書きってことですか」
打てば響くようだった返答に初めて間が空いた。
「……そう考えてもいいと思いますけど……」
困ったように眉を寄せている。なんだろう、と俺は思った。
「なにか気になることがあるんですか」
「大したことではないと思うんですけど、ちょっと分からないことがあるんです……失礼ですけれど、お祖母様は蔵書にこういう落書きをされる方でしたか?」
「え? いや、まさか」
俺は首を横に振った。とても想像がつかない。
「本をすごく大事にしてて……家族にも触らせなかったんです。うっかり触るとすごい勢いで怒ってたし」
祖母の本に触るのはタブーだということは、俺だけではなく親族全員が知っている。祖母と折り合いの悪かった母ですらそんな真似はしなかった。そもそも、うちには他に読書家はいないので、わざわざ触りたがったりしないはずだ。
「筋の通る説明はそれぐらいかなと思ったんですけど……そうですよね。まだご自分のお名前を書かれるなら別ですけど……」
篠川さんは『第八巻 それから』を再び筺から出して、表紙をめくった。俺は椅子の上で伸び上がり、改めてサインを覗きこむ。
「夏目漱石
田中嘉雄様へ」
筆圧が弱いらしくところどころ線が細い。よく見ると女っぽい字だ。真似のしやすそうな癖のない字だが、俺の知っている祖母の筆跡ではなかった。
「誰かが持ってたこの全集をビブリア古書堂に売って、それを祖母が買ったってことですよね」
俺が言うと、彼女は本から顔を上げた。
「……そういうことになりますね」
「前の持ち主だった人が落書きしたんじゃないですか? この『田中嘉雄』って人がそうだったとか……」
「いいえ、それも不自然なんです」
彼女は本に挟んであった値札を俺に見せた──「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」。
「この値札はわたしの祖父が、ビブリア古書堂を開店したばかりの頃に使っていたものです。今から四十五、六年前ということになりますね」
祖母が『漱石全集』を買ったのもその頃ということだ。四十五、六年前というと西暦では──ぱっと数字が出てこない。まあ、別にいいか。
「この値札には『書き込み有り』と書いてありません」
と、指を差しながら彼女は説明する。
「古書店では仕入れがあると、まず本の状態をチェックします。わたしがさっきやったようにです。こんな目立つところに書きこみがあれば普通は気付きますし、値札にもそのことを書くはずなんです。後でお客様からクレームがつくこともありますから」
「……あ」
そういうことか。俺にもやっと分かった。「落書き」のあることが値札に明記されていないのは不自然ということだ。
「だから、あなたのお祖母様がうちの店でこの全集を買った時、この偽の署名はなかったことになるんです」
俺は腕組みをする。なんだか話がおかしくなってきた。俺と彼女の言っていることがどちらも正しいとすると、この偽のサインをした人間はどこにもいないことになってしまう。そんな馬鹿な。
「あ……」
俺ははっとした。
「どうしました?」
「……ひょっとすると、祖父がやったのかも」
「お祖父様、ですか?」
「何十年も前に死んでるから、俺は会ったことないんですけど、うっかり祖母の本棚に触って大騒ぎになったみたいで……」
母から聞いた話では、もう少しで祖父を家から叩き出す勢いだったらしい。もし本に触っただけではなく、落書きまでしたのだとしたら──本に触った俺を殴ったのも分からないではない。昔の悪夢が蘇ったんじゃないだろうか。「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」というあの言葉も、祖父のやったことが頭にあったのかもしれない。
「他にやりそうな人はいないと思います。みんな本棚に触ろうとしなかったし……」
しかし、篠川さんは静かに首を横に振った。
「わたしは、違うと思います」
「えっ?」
「他のご家族ではなく……お祖母様ご自身が書かれたものだと思います」
彼女はきっぱり言った。
「なんでですか?」
と、俺は尋ねた。どうしてそんなにはっきり言えるんだろう。
「勝手に落書きされたとしたら、お祖母様が放っておかれたのは変です。この本には文字を消そうとした形跡がまったくありません……もし消すのが難しかったとしても、この八巻だけ買い直すことはできたはずです。さっきもお話ししたように、決して高価な本ではありません。何度も増刷されて、新刊書店でも長い間売られていました」
「でも……別に放っておいたつもりはないかもしれないですよ。誰かが勝手に書きこんで、祖母がそのことに気が付いてなかったってことも……」
俺は途中で口をつぐんだ。それこそありえない話だ。五浦家の観音菩薩はそんなに甘くなかった。誰かがあの部屋の本に触ったとしたら、すぐに気付いたはずだ。
(……本当にばあちゃんが自分で書いたのか)
もしそうだとすると、ただのいたずらとは言えなくなる。あの祖母が本を汚さなければならない事情があったということだ。俺は眉をぎゅっと寄せて腕組みをする。
「わたし、それにまだ気になっていることがあるんです。この値札ですけど」
不意にぷつんと言葉が途切れる。俺が目を上げると、篠川さんはぎょっとしたように視線を膝に落とした。つややかな長い黒髪が頬を隠している。
「……あの……申し訳ありません……」
彼女はぼそぼそと頼りない声で言った。『漱石全集』を渡す前の弱々しい態度に戻ってしまった。なにが申し訳ないのかさっぱり分からない。
「え? なにがですか?」
俺は訊き返す。
「……だから……ご迷惑を……」
「え? すいません。もう一度言ってもらっていいですか」
聞き取りにくさに身を乗り出すと、篠川さんは窓際に下がろうとする。俺がなにかやったんだろうか。戸惑っていると、彼女の白い喉がぐっと動いて、変なトーンの声を絞り出した。
「こっ、この署名が本物かどうか、だけだったのに……ちょ、調子に乗ってお喋りしてしまって……」
ますますわけが分からない。
「む、昔から、言われるんです……本のことばっかり、よく喋る、って……」
窓に映っている自分の姿に気付いたのはその時だった。丸椅子にどっかり腰を下ろした大男が、眉間に何本も皺を刻んで、刺すような細い目でこちらを睨みつけている。我ながら殺意があるとしか思えない。慣れない考え事をするうちに、祖母譲りの眼光を発していたらしい。
「おっ、お時間を取らせてしまって、本当に……」
そう言いながら『第八巻 それから』を紙袋に戻そうとしている。今にも話をやめてしまいそうだった。
「迷惑なんかじゃありません」
気が付くと大きな声を出していた。彼女は体をびくっと震わせる。紙袋ごと本を落としそうになり、大あわてで無駄に腕を回した。今度は床に落とさずにどうにか受け止める。ほっと肩で息をついてから、俺に見られていることに気付いて、恥ずかしそうに紙袋で顔を隠した。
「……続き、聞かせて下さい。お願いします」
今度は意識して静かに話しかける。彼女は紙袋の陰からおどおどと俺を窺っている。さっきまでの堂々とした話しっぷりとは本当に似ても似つかない。まるっきり別人だ。
「子供の頃、本のことで嫌な思いをしてから、本が読めなくなったんです。でも、読みたいってずっと思ってました。だから、こういう話を聞くのが楽しいんです」
気が付くと俺はそう言っていた。今まで誰にも理解されたことのない「体質」についての話だ。彼女は目を大きく開いてじっと俺を見ている。分かるわけないか、と諦めかけた時、顔の前から紙袋をどけた。大きな黒い瞳に輝きが戻っている。スイッチが入ったみたいに態度が変わっていた。
「本を読めなくなったのは、お祖母様に怒られたせいですか?」
彼女はよく通る声ではっきり言う。今度は俺が驚く番だった。
「なんで分かったんですか?」
「うっかり本棚に触ると、お祖母様が『すごい勢い』で怒ることをご存じでした。でも『みんな本棚に触ろうとしなかった』とおっしゃっていたので、自分以外のみんな、という意味かと思って……大騒ぎになるような怒られ方をすれば、本が読めなくなっても不思議はないでしょうし……」
俺は唖然とした。こうもあっさり言い当てられるとは。本のことになると、やっぱりよく頭が回る人だ。
俺は両膝に手を着いて腰を落ち着ける。もっと彼女の話を聞きたかった。
「わたし、古書が大好きなんです……人の手から手へ渡った本そのものに、物語があると思うんです……中に書かれている物語だけではなくて」
彼女は言葉を切って、正面から俺と視線を合わせた。まるでたった今、俺という人間の存在に気付いたみたいだった。
「……お名前、伺ってもいいですか」
「五浦大輔です」
「五浦さん、実は他にも気になっていることがあるんです」
名前を呼ばれた途端、背筋がぞくっとした。急に距離が縮まったような気がする。彼女は再び「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」の値札を俺に向かって見せた。
「この値札の内容です。ここに『蔵書印』と書かれていますね」
「え? ……あ、はい」
「これです」
彼女はシーツの上に積まれていた『漱石全集』の山から一冊を取って、筺から中身を出した。『第十二巻 心(こころ)』だ。表紙をめくっても見返しにサインはない。その代わり、紫陽花がデザインされたスタンプのようなものが押されていた。
「これが蔵書印です。本の所有者が自分のコレクションに押す印鑑のようなものです。中国や日本で古くから盛んに作られてきたもので、所有者の好みによってデザインはさまざまです。普通の認め印と同じように、文字だけのものが一般的ですけれど、こんな風に絵をあしらうこともあります。この蔵書印を使ってらっしゃった方は、紫陽花がお好きだったのかもしれませんね」
「はあ……」
こんなものがあることすら知らなかった。大いに感心しかけて、ふと俺は疑問を抱いた。
「あれ、こっちの本にこの蔵書印って押してありましたっけ」
俺は彼女の膝に置かれている『第八巻 それから』を見ながら言った。こんな目立つものが押されていれば気が付いたはずだ。
「いいえ。それが不思議なんです。実は『それから』だけにこの蔵書印がないんです。他の巻にはすべて押されているのに」
「……それって変じゃないですか?」
「とても変ですね」
俺は唸った。三十四冊のうち、蔵書印がある本にはサインがなく、サインがある本には蔵書印がない。ますます謎が深まった気がした。
「……お祖母様がどういう経緯(いきさつ)でこの全集をうちでお買いになったのか、聞いてらっしゃいませんか?」
「いえ……とにかく、結婚する前に本をよく買ってたとしか……多分、伯母たちや母も知らないと思います。誰もこういう古い本に関心がなかったんで」
「……そうですか」
と、彼女は口元に拳を当てて言った。
「だとすると、考えられることは、この八巻が……」
篠川さんは急に黙りこんだ。俺は慌てて窓ガラスを見る。今度は誰も睨みつけていなかった。俺の目つきのせいではないらしい。
「この八巻が、なんですか?」
焦れて先を促す。どうも彼女は続きを話すのをためらっている様子だったが、やがてすっと人差し指を唇の前に立てた。
「……ここだけの話にしていただけますか」
「え?」
「お祖母様のプライバシーに触れることですので」
「……分かりました」
少し迷ってから頷いた。祖母が生きているならともかく、もう一周忌も過ぎている。孫の自分がこっそり聞くぐらいは許されるだろう。とにかく話の続きを知りたくて仕方なかった。
「要は五浦さんがうちにこの本を持ってこられたことが、答えなんだと思います」
「どういうことですか?」
「もしこの署名や値札がなかったとしたら、古書店でこの本を買ったとは誰も思わないはずです。五浦さんのお祖母様は、ご家族にそういう風に思わせたかったのではないでしょうか」
「えっ?」
俺は目を丸くした。なんの話をしているのか、さっぱり分からなかった。
「思わせるもなにも、この本はもともと祖母がビブリア古書堂で買ったもんでしょう。買った後でサインを書いたんじゃないんですか?」
「わたしもさっきまではそう思ってました。でも、もう少し事情は複雑だと思うんです」
彼女は『第八巻 それから』を開いて、見返しのサインに触れた。
「これはケンテイ署名の体裁になっていますよね。普通はこういう場合……」
彼女はそこまで言いかけて、首をかしげている俺に気付いた。
「ケンテイは献上の献に贈呈の呈と書きます。作者が自分の名前だけではなく、本を贈った相手の名前も書くことを言います」
献呈署名。なるほど、一つ賢くなった。俺は頷いて先を促す。
「献呈署名のやり方に決まりはありませんが、贈る相手の名前を中央に書いて、その左側に贈る側……著者が自分の名前を書き添えるのが一般的です。でも、この本では逆になっていますね」
手紙の宛名などと同じ要領ということだろう。確かにこの本では「夏目漱石」の名前は中央に、左側に「田中嘉雄様へ」と書かれている。
「そういうことを、祖母が知らなかっただけじゃないですか?」
「かもしれません……でも、もっとおかしなことがあるんです。どうして五浦さんのお祖母様は、これを献呈署名の形になさったのか、です。署名本に見せかけたいだけなら、漱石の名前だけを書けば事足ります。もう一つの名前は必要ないはずです」
俺もこの本を見た時から、ずっとこの田中嘉雄が気になっていた──一体、これは誰なのか。
「……わたしは、逆だったと思うんです」
穏やかな口調だったが、篠川さんの黒い瞳は興奮を物語るように輝いている。俺はさらに話に引きこまれて、ベッドの方に椅子ごと近づいた。
「……逆?」
「一人の人間が続けて書いたにしては、この署名の文字はバランスがおかしい気がします。もともとこの八巻に書かれていたのは夏目漱石ではなく、田中嘉雄さんの署名だったんじゃないでしょうか。そこに五浦さんのお祖母様が漱石の名前を書き足された……そう考えるのが自然だと思うんです」
「えっ、でも……この田中って人は、なんで作家でもないのにサインなんか書いたんですか」
「作家になりすましたつもりはなかったんだと思います」
彼女は顔を赤らめて答えた。
「これはプレゼントだったんじゃないでしょうか。贈り主が自分の名前を書いても、不思議ではありませんよね」
「あ……」
つまり、この田中嘉雄が祖母に贈ったということだ。
ふと、他界する前に祖母が言ったことを思い出した──本の虫は同類を好きになるもんだ。祖父は本を読む人ではなかった。結婚前、祖母が「同類」の男性と親しくしていたとしても不思議はない。
思いに沈みかけていた俺ははっと我に返った。それでは話の筋が通らない。
「でも、この全集はうちの祖母がビブリア古書堂で買ったんですよね。田中って人が贈ったんじゃなく」
「そこです。おそらく、田中さんが贈ったのはこの一冊だけでしょう。多分、お祖母様は名前入りの『第八巻 それから』を贈られた後で、うちの店で三十四巻のセットを買われたんです。おそらく重複した八巻は、処分してしまったのでしょう。この本だけに蔵書印がなかったことや、値札に署名のことが書かれていなかったことも、それで説明がつきます」
「な、なんでそんなややこしいことするんですか?」
「この八巻を他のご家族に見られないようにするため……万が一見られても、プレゼントだと気付かせないための偽装だと思います。『漱石全集』の八巻だけが本棚に混じっていたら、人目を惹くかもしれません。それで、うちで三十四巻のセットを買ってこられた……わざわざ値札を八巻に挟んだのも、古書店で買ったという『証拠』になるからでしょう」
「それじゃ、サインは?」
「漱石の名前を書き添えられたのは念のためだと思います。ご家族に本物だと信じさせたかったわけではなく……むしろ『前の持ち主が書いた、取るに足らない落書き』だと誤解させたかったんじゃないでしょうか」
このサインを見た時のことを思い出す。俺は偽物かもしれないと最初から疑っていたが、いたずら書き以外の可能性を考えたりはしなかった。祖母の偽装にまんまと引っかかったことになる。
「……そんなことまで、しなきゃいけなかったのか」
と、俺はつぶやいた。怖いものなしに見えたあの祖母が、ここまでして隠さなければならないことがあったのか。
「昔のことですし……ご事情があったんだと思います」
彼女は慎重な言い方をした。「事情」は俺にも察しがついた。祖母が結婚する前、曾祖父母はまだ健在だった。今とは時代が違う。親に隠れて異性と付き合わなければならないことは、今よりもずっと多かったはずだ──結局、祖母は見合いをして祖父と結婚した。この田中嘉雄とは、きっとどうにもならなかったのだ。
俺はこの病院で祖母が話したことを思い出していた。殴ったことを謝った後で、急に俺の結婚相手に話題が飛んだ。『それから』に関する話をしたことで、結婚を連想したのだろう。だとすると、「死んだら自分の本を自由にしていい」という言葉にも意味があったのかもしれない。俺たちにはこのサインを見せてもいいと思っていたんじゃないだろうか。
きっと、祖母にとってはすべて繋がっている話だったのだ。
「でも、なんで本棚に並べておいたんだろう。どっかに隠しておけばよかったのに」
それだけが理解できなかった。引き出しの奥にでもしまっておけば、こんな小細工をする必要はなかったはずだ。
「どこかにしまいこむよりも、他の本と一緒に並べておいた方が、かえって安全だと思われたのかもしれません。それに……」
彼女の手は『第八巻 それから』の表紙を愛おしむように撫でている。どういうわけか、俺を殴った祖母の手を思わせた。
「……すぐに手に取れるところに大切な本を置いておきたい、という気持ちもあったんじゃないでしょうか」
うつむいている彼女の目は、膝の上よりも深いところを見ているようだった。そういえば、この人も「本の虫」だ。恋人がいるとしたら、やっぱり同類なんだろうか。そう尋ねてみたいと一瞬本気で思った。
「……ここまでの話が、どこまで本当かは分かりません」
突然、顔を上げて彼女は言う。
「わたしたちが生まれるよりもずっと昔の話ですし、お祖母様に確かめることもできません……この本から読み取れることを繋ぎ合わせると、こういうことになるというだけです」
唇にかすかな笑みが漂っている。俺は夢から覚めたような気分だった。確かに祖母がこの世を去った今となっては、どこまで正しいかどうか分かったものではない。
ふと、篠川さんは手首をちらっと見下ろした。腕時計の時刻を確かめたようだった。これから診察でもあるのかもしれない。
「この全集、どうなさいますか? もしよろしければ、うちで買い取りできますけれど……」
「いいえ、持って帰ります。本当にありがとうございました」
俺は椅子から立ち上がった。値打ち物ではないとしても、この全集には祖母の過去が詰まっている。そうそう人手に渡してしまう気にはなれない。
「……話、面白かったです。すごく」
ベッドの上の篠川さんと目が合った。このままただ帰ってしまうのはあまりにも馬鹿らしい。今度また話を聞かせて下さいとか、次に繋がることを言おうと焦っていると、『漱石全集』の入った紙袋が差し出された。
「……どうも」
その袋を受け取ると、彼女の唇が動いた。
「……五浦大輔さん」
「は、はい」
急にフルネームで呼ばれて戸惑った。
「ひょっとして、命名はお祖母様ですか?」
「え? ……そうですけど、なんで分かったんですか?」
親戚以外に知っている人間はいないはずだ。知りたい人間がいるとも思えないが。俺が答えを言った途端、彼女の表情がわずかに翳(かげ)った。
「……お祖母様が結婚なさったのはいつ頃ですか?」
今度は一体なんだろう。まだ話は終わってなかったのか? 戸惑いながらも記憶を探る。詳しいことは知らないが、そういえばつい最近誰かとそんな話になったような。ふと、俺は紙袋の中を見下ろした。
「あ、そうだ。この本が出た次の年だって聞いてます」
俺は紙袋を開いて、一番上の『第八巻 それから』を指差した。
ほんの一瞬、彼女の顔がこわばったような気がした。あるいはただの見間違いかもしれない。
「変な話に付き合わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
彼女はベッドの上で堅苦しく頭を下げた。
家に戻って結果を報告すると、母の顔色が変わった。
もちろん、祖母の過去については一言も触れていない。サインが本物ではなかったことだけ伝えたのだが、母の怒りのツボは別のところにあった。
「あたしがいつ古本屋に持って行けって言ったのよ。病院にまで押しかけて、ただで見てもらうなんて迷惑もいいとこじゃない。無銭飲食よりたちが悪いわ」
無銭飲食が出てくるあたりは腐っても食堂の娘だ。食堂の孫である俺にも、その罵倒は胸に刺さった。明日にでも菓子折を持ってお詫びに行ってくるように、という命令に大人しく従うことにした。成り行きとはいえ迷惑をかけたことは間違いない。それに、彼女に会いに行くいい口実になる。
次の日は平日だった。
俺が起きたのは昨日と同じく昼前で、母はとっくに出勤していた。階下に下りてポストを覗きこむと、応募した会社から通知が届いている。中を開くと履歴書と素っ気ない不採用通知が出てきた。俺はため息をつきながら通知をゴミ箱に捨てて、食堂の引き戸を開けて外へ出た。
相変わらず脳天を焦がしそうな暑さだ。じめりとした熱風が海の方角から吹いてきた。かすかに磯の匂いが漂っている気がする。まったくもって快適ではないが、俺が子供の頃から慣れ親しんだ鎌倉の夏だった。
駅前のマクドナルドで空腹を充たした後、駅ビルをぐるぐる回って「美味しいもの」を探したが、これだと決めることができない。彼女の好みが分からないこともあるが、買い物に集中していなかったせいだ。昨日病室を出る前の会話がまだ気になっていた。
祖母が俺の名前を決めたのか、祖母が結婚したのはいつなのか──どちらの質問も大した意味はなさそうだが、間違いなく彼女は俺の答えに動揺していたと思う。
昨日の晩、俺の名前が「大輔」に決まった経緯を母に尋ねてみた。
「あんたが生まれた時、あの人が強引に決めちゃったのよね」
と、母は吐き捨てるように言った。二十年以上も前のことをまだ根に持っているようだった。いい加減、母親を「あの人」呼ばわりするのもどうかと思う。
「昔からどうしても付けたかった名前があるって言われてね。あたしもつい押し切られちゃって……『大輔』なんてやめときゃよかったわ。なんか昔の暴走族みたいじゃない?」
俺は昔の暴走族ではないので、そこで同意を求められても困る。暴走族にどんな名前が多かったかなんて知るわけがない。
「一番好きな小説に出てきた名前らしいわよ。漢字を変えたけど読みは同じだとか言ってたわね。なんの小説だか忘れちゃったけど」
なんの小説かは俺が知っている。昨日、家に戻ってから『第八巻 それから』を開くと、主人公らしい男の名前は「代助(だいすけ)」だった。きっとそれにちなんで俺の名前を付けたのだろう。篠川さんもそのことに気付いたのだ。
本を開くと冷や汗が噴き出てきたが、我慢して冒頭を少し読んでみた。俺が読んだ範囲では、住みこみの書生と朝食を取りながら世間話をしているだけだ。そのうち代助がなんの仕事もしていない男だと知って、がぜん親近感が湧いてきた。あまり積極的になにかしそうなタイプとは思えないが、こっちの代助はこの後どうなるんだろう。例の「体質」さえなかったら、最後まで読むのに。
それにしても、祖母がどういうつもりで俺の名前を付けたのか不思議でならない。まさか真っ昼間からぶらぶらしている人間になって欲しいと願ったわけではないだろう──。
考え事をしながら商店街をぶらぶら歩いていた俺は、とある洋菓子店の前で立ち止まった。ビスケットにレーズン入りのバタークリームを挟んだ、レーズンサンドが名物の店だ。ここの菓子なら見舞いに持っていってもいいような気がする。それに、これ以上歩き続けるには暑すぎる。
店に入ろうとした時、見覚えのある小柄な女性が中から現われた。色黒で小太りの体型にくりっとした大きな目。顔を見るたびに子熊を連想してしまうが、俺の母親よりも年上だ。買い物を終えたばかりらしく、箱の入ったビニール袋を提げている。
「あら、大輔。あなたもこういう店でお菓子買うの?」
藤沢(ふじさわ)に住んでいる舞子(まいこ)伯母だった。
舞子伯母は五浦家の長女で、親族の中では一番の勝ち組と言っていい。
子供の頃から成績優秀で、横浜にあるミッション系の女子大を卒業してすぐ、電力会社に勤める男性と結婚し、滞りなく二人の娘を産んだ。大船に近い藤沢市の鵠沼(くげぬま)にだだっ広い家を建て、家族四人でゆったり暮らしている。面倒見がよくていい人だが、話していると少し息が詰まる。
祖母や母とは顔立ちがあまり似ていない。仏壇に飾られている祖父の写真とそっくりだった。
「うちの美奈(みな)も先々月会社辞めちゃったでしょう。しばらく旅行行ったり友達と食事に行ったりしてて、やっとこの前から働き出したんだけど、場所が川崎駅のそばなのよ。若い女が川崎なんてやめたらって言ったんだけど、あの子全然聞かなくて」
俺は駅ビルの中にある全国チェーンのカフェに連れられて来ている。店内には伯母と同年代の女性客ばかりで、男の客は俺一人だ。居心地が悪いことこの上ない。
「……別に危ないところじゃないと思うけど」
話題は従姉のことだった。この前の一周忌で顔を合わせて以来だ。
「でも川崎は昔から男の人が遊ぶところでしょう。残業も結構多いから、心配なのよね」
川崎は歓楽街だと決めつけているらしい。以前はそうだったのかもしれないが、今の駅周辺はごく普通のショッピングモールになっている。そう言おうとした時、伯母はいきなり話題を変えた。
「そういえば、恵理(えり)は最近どうしてる? 仕事忙しいの?」
恵理というのは俺の母の名前だ。このところ残業が多いとこぼしていた気がする。
「……多分」
「あなたはどうなの。就職先は決まった?」
「……いや、まだ」
「どういうところに就職を考えてるの? ちゃんと就活してるんでしょうね?」
いつのまにか、ただの説教になっている。大人になってから薄々分かってきた。この伯母が長々と自分の家族の話をする時は、相手の事情を訊き出したい時の前振りだ。何社か受けてるんだけど、今ハローワークにも行っていて、とへどもどしながら答えると、
「この不景気なんだから、自分の適性をきちんと考えないと就職なんてできないわよ。あなたは体力があるんだから、自衛隊とか警察とか受けてみたらどうかしら」
多少言い方は上品だが、母とあまり変わらないことを言っている。やはり姉妹なんだと妙なところで感心した。
「うちの主人も心配してるわよ。どうしてもうまくいかないようなら、いつでも相談に来なさい」
かなり興味をそそられた。伯父は鵠沼の大地主の次男坊で、藤沢ではかなり顔の広い人らしい。昨年定年退職したが、市会議員選挙に立候補するという話もある。どこか就職先を紹介してくれるつもりかもしれない。
「あ、はい」
「あまりふらふらしてると、おばあちゃんもあの世で心配するわよ。あなたのこと、目に入れても痛くないぐらいかわいがってたんだから」
俺はアイスコーヒーを噴きそうになった。
「いや。まさか。ないな」
あの細目にはごみの入る余地もなかったと思う。間違えても家族を手放しでかわいがる人ではなかった。
「恵理とまったく同じこと言うのね。二人とも気が付いてないなんて」
伯母は憂い顔でため息をついた。
「わたしはね、みんなより長くおばあちゃんを見てきたから分かるの。あなたと恵理がおばあちゃんのお気に入りだった……たまにうちに来たりすると、あなたたちのことばかり話してたわ。最後の旅行だって連れていったのはあなたと恵理でしょう? 最初はわたしと主人が付き添う話が出てたけど、おばあちゃんが断ってきたのよ」
それは初耳だった。確かに会社員の母と就活で忙しかった俺よりは、定年退職した伯父と専業主婦の舞子伯母の方が、時間の自由はあったはずだ。
そういえば、祖母がこの伯母と口論したところを一度も見た記憶がない。母と違ってうまくいっていると思いこんでいたが、少し距離のある間柄だと言えなくもない。
「でも、なんで俺たちが……」
俺と母は外見にも中身にも可愛げがない。祖母のお気に入りになるような長所はないような気がする。
「……背が高いからじゃないかしら」
「はあ?」
俺は思わず訊き返す。しかし、伯母の表情は真剣だった。
「冗談で言ってるんじゃないのよ。おじいちゃんもそうだったんだけど、うちは小柄の家系でしょう。恵理とあなただけが特別なの。体格のいい人が好きだったんだと思うわ……ほら、おばあちゃんの部屋に入るところに、こういうのがあるでしょう」
伯母は指で細長い四角を作ってみせた。しばらく考えてから、なんのことを言っているのか分かった。鴨居に打ちつけてあるゴムの板だ。
「あれはね、わたしが小さい頃に、おばあちゃんが付けたのよ。あんなところまで背が届く人なんてうちにはいなかったのに、『次に生まれる子の背が伸びて、頭をぶつけたらかわいそうじゃないか』って……恵理を妊娠する前だから、もう四十五、六年経つかしら」
俺は息を呑んだ。頭の中でぐるぐると数字がまわり、それから不意に祖母の声がこだまする──「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」。
そうだったのか、と俺は心の中でつぶやいた。動揺を隠すためにアイスコーヒーを一口飲む。口の中はかさかさに乾いていたが、手のひらにはびっしょり汗をかいていた。
「……大輔はぶつけたことあるの? あそこに」
俺は黙って頷いた。
「それじゃ、役に立ってるのね。おばあちゃん、きっと喜んだと思うわ」
伯母の言葉がひどく遠くから聞こえる。篠川さんがどうして驚いたのか、やっと分かった──いや、まだそれが本当に正しいと決まったわけじゃない。俺は顔を上げた。
「そういえば、前から訊きたかったんだけど」
できる限り平静を装って言う。前からではなくたった今思いついた質問だった。
「おじいちゃんってどういう人だった?」
グラスを手に取ろうとしていた伯母の手が止まった。沈黙が流れる。周囲の客の声が急にはっきりと耳に入ってきた。隣のテーブルで伯母と同年代の女性二人が、大きな声で喋っている。最近試した健康食品の中では、黒酢が一番効果があったらしい。
「おばあちゃんが、おじいちゃんの話をしたことはあった?」
そう訊かれて、初めて気付いた。祖母から祖父との思い出を聞いた記憶がまったくない。
「……いや」
「じゃあ、おじいちゃんが死んだ時のことも聞いてないわよね?」
「お袋から少しだけ……真夏に川崎大師へお参りに行って、交通事故に遭ったとかなんとか」
突然、伯母は軽く鼻を鳴らして苦笑いを浮かべた。冷ややかな表情にどきりとする。いつもの人のよさからは想像もつかなかった。
「恵理は小さかったから、真に受けてたのね」
独り言のように低くつぶやく。
「鎌倉にいくらでも神社仏閣があるのに、わざわざ川崎までお参りなんて変だと思わなかったのかしら。それもこんな真夏でしょう? ……川崎大師はね、おじいちゃんがふざけて口実にしていただけよ」
「……口実?」
「競馬と競輪よ。川崎っていえばそうじゃない。おじいちゃんはお酒も大好きな人だったわ。事故に遭った日もかなり酔っ払っていたのよ」
俺は二の句が継げなかった。今の今まで、祖父をそんな人間だと思ったこともなかった。
「おじいちゃんは婿養子で、結婚したての頃は真面目に働いていたそうよ。でも、わたしが生まれて、ひいおじいちゃんたちが亡くなった頃から、だんだんおかしくなっていったの。『川崎大師』に行ったまま何日も帰ってこないことが多くなったわ」
伯母が川崎を嫌う気持ちがやっと分かった。父親がギャンブルをしに行っていた街を好きになるはずがない。今でも近づきたくない街なのだろう。
「おばあちゃんが離婚しなかったのが不思議なぐらい……なにがあってもじっと我慢してたけど、本棚に触った時だけは別だったわ。あの時は本当に怖かった」
俺は喉元まで出かかった言葉をごくりと呑みこむ。まだ動揺が収まらなかった。
「大輔はおじいちゃんみたいになったら駄目よ。きちんと働きなさい」
突然、説教らしい口調に戻った。母も知らないことを教えたのは、戒めのためだったらしい。その言葉が合図のように、伯母は椅子を動かして立ち上がろうとする。そろそろ帰るつもりのようだった。
「……伯母さんは夏目漱石の『それから』って読んだことある?」
洋菓子店のロゴが入った袋を手に取った伯母が、怪訝(けげん)そうに俺の顔を見上げた。両目が瞬きを繰り返している。
「どうしたの、急に」
「ばあちゃんが大事にしてたもんらしくて、最近読み始めたんだ」
そう言って、伯母の反応を窺った。戸惑っているが驚いてはいない。あの本に隠された秘密については、なにも知らないようだった。長女の舞子伯母が知らないとすれば、おそらく親族の中で気付いたのは俺だけだろう。
「わたしは読んだことないわね。映画は見たけれど。ほら、松田優作(まつだゆうさく)が主演の」
俺は首をかしげる。映画化されたことすら初耳だった。
「結局、どういう話? 主人公が働いてないことしか分からないんだけど」
「そうね、確か……」
伯母は記憶を辿るように視線を落とした。あまり印象に残っていないらしい。
「確か、主人公の男の人が、よその奥さんを取っちゃうのよ」
病院を訪ねたのは、西日が強くなり始めた時刻だった。
篠川さんは昨日と同じくベッドで本を読んでいた。ちょうど口笛を吹こうとしていたらしく、唇をちょっと尖らせていた。俺が病室に入っていった途端、顔を真っ赤にしてぎゅっと首を縮めた。
「こ、こんにちは……」
と、小さな声で言った。昨日、『漱石全集』の謎を解いた時とはまるで態度が違う。本の話をしていないと、途端に内気な性格に戻ってしまうようだった。
「こんにちは。今、大丈夫ですか?」
「あ、はい……こちらへ……」
おどおどしながらも、椅子を勧めてくれる。ベッドに近づくと、膝の上に載っている本が目に入った。今日は文庫本だった。なんの本だろう、と思っていると、彼女ははにかみながら表紙を見せてくれる。アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』。変わった書名だ。どんな内容なのか想像もつかない。
俺は改めて昨日のことを謝って、買ってきたレーズンサンドを差し出した。彼女は慌てたように何度も首を横に振った。
「いえ……そんな、わざわざ……わたしの方こそ、つまらない話ばっかり……」
つまらない、という言葉に力がこもっていた。こういうものは受け取れませんと断り続ける篠川さんに、半ば押しつけるようにレーズンサンドの箱を手渡した。彼女は困り果てたように箱を見下ろす。
強引すぎたかもしれない、と思い始めた時、
「……わ、わたし、ちょうどおやつが欲しかったんです」
小声でつっかえながら言った。
「も、もしよろしかったら……一緒に召し上がりませんか?」
もちろん断る理由はない。彼女は箱を開けて、小分けに包装された一枚を差し出してくる。俺たちは同時にビニールの包装を開いた。
レーズンサンドは思ったよりもずっと美味しかった。バターの香りと酸味のあるレーズンがよく合っている。さっくりしたビスケットの歯触りもいい。
「わたしも、これを時々買います……次の日に食べても、しっとりして美味しいんです」
篠川さんは顔をほころばせて言った。まったく知らなかったのだが、これを選んで正解だったらしい。
俺は二口で食い終わってしまったが、彼女はまだゆっくり端をかじっている。一緒に食べようと言ったわりに、彼女はほとんど話をしようとしなかった。もちろん、『漱石全集』についても触れようとしない。
彼女は俺から聞いた話と、本に記されていることだけで、何十年もの間隠されていた祖母の秘密をすっかり見抜いてしまった。そして、あまりに重い秘密の中身に、俺が気付かないよう配慮している。さっき「つまらない話」と言ったのはそのためだろう。
もちろん、もう手遅れだった。
例の『第八巻 それから』が出版されたのは、昭和三十一年七月二十七日、つまり一九五六年──今から五十四年前になる。祖母の結婚が次の年だと聞いたので、てっきり田中嘉雄が本を贈ったのもその頃だと思っていた。
しかし考えてみれば、出版されてすぐに田中嘉雄が本を贈ったとは限らない。むしろ、大事にしていた本を贈る方が自然だ。
祖母がビブリア古書堂で他の巻を買ったのは四十五、六年前だ。結婚してから十年近く経っている。田中嘉雄が祖母に本を贈ったのがその頃だとすると、二人が付き合っていたのは祖母が結婚した後ということになる。漱石の『それから』は他人の妻を奪う話らしい。祖父母の結婚生活はうまくいっていなかった。
祖母はその主人公にちなんで俺に「大輔」と名付けた。ずっと昔からその名前を温めていた──ということは、もともと俺のために考えた名前ではない。きっと、母が男に生まれたら付けるつもりだったのだろう。母が生まれたのは、祖母が『漱石全集』をビブリア古書堂で買った後だ。
祖母は背の高い人が好きだったと舞子伯母は言っていた。だから母と俺を気に入っていたのだと。でも、おそらくそれは事実の半分でしかない。五浦家で背が高いのは俺たちだけで、他は全員小柄だ。祖父とは顔つきもまったく似ていない。
祖母は秘密の恋人の面影を、母と俺越しに見ていただけなんじゃないのか?
二階の和室の鴨居に打ちつけられているゴムの板。背の低い人間には思いつきそうもない配慮だ──誰かが頭をぶつける姿でも目にしない限りは。
本当は成長した子供たちのために打ちつけたのではないのかもしれない。もっと別の誰かが、怪我をしないためにしたことだったとしたら。他の家族がまったく知らない、俺のように体の大きな誰かが。
俺の本当の祖父は、この田中嘉雄で──祖母はそのことを必死に隠そうとしていたんじゃないだろうか。「うちの子じゃなくなる」という言葉は、文字通りの意味だったんじゃないのか?
まあ、すべてはただの想像だ。祖母のいなくなった今となっては、もう真相を確かめられそうにない。たった一つの可能性を除いては。
「……田中嘉雄は、まだ生きてると思いますか」
そう俺が言うと、最後の一口を食べようとしていた篠川さんの動きが止まった。
「ご存命かもしれませんね……ひょっとすると……」
彼女は目を伏せる。なにを考えているのか俺にも分かった。田中嘉雄が食堂の切り盛りで忙しかった祖母と会っていたとすれば、この近辺に住んでいた可能性が高い。
ひょっとすると、今もまだ住んでいるかもしれない。
西日の射す病室に沈黙が流れる。口に出すのもためらわれる事実を、ここにいる二人だけが知っている。俺たちはお互いについてほとんどなにも知らないのに、なぜか秘密を共有する間柄になっていた。
「あの……五浦さん」
篠川さんの声が急にはっきり耳に飛びこんできた。
「今、どんなお仕事をなさってますか?」
突然、現実に引き戻された。オブラートに包んだ言い方はなさそうだったので、はっきり答えるしかなかった。
「……無職です」
「アルバイトは?」
「……今は、なにも」
いつ面接が入るのか分からず、長期のアルバイトもしにくい状態だった。口に出すといっそう惨めだ──が、なぜか彼女の顔には喜色が浮かんでいる。どうしたんだろう。俺の無職がそんなに嬉しいんだろうか。
「わたし……骨を折ってしまって、退院するまでしばらくかかるんです……もともと、人手が足りなかったところに、そうなってしまって」
「……はあ」
曖昧に相づちを打つ。話の流れが見えてこない。
「それでですね、もしよろしかったら、うちの店で働いていただけませんか?」
俺は目を剥いた。彼女は深々と頭を下げてくる。
「どうかお願いします。妹は手伝ってくれてますけど、あてにならなくて」
「ちょ、ちょっと待って下さい。俺、本のことなんて全然分からないですよ」
それに例の「体質」のことも話したはずだ。本を読むのが苦手な本屋なんて聞いたことがない。
「……車の免許は、持ってらっしゃいますか?」
「持ってますけど」
「よかった。それなら大丈夫です」
彼女は力強く頷いた。
「……本を読んでることより、車の運転ができることの方が大事なんですか?」
「古書店の人間に必要なのは、本の内容よりも市場価値の知識なんです。本を多く読んでいるに越したことはありませんが、読んでいなくても学べます。実際、仕事を離れると、ほとんど本を手に取らない古書店員も珍しくありません。わたしみたいになんでも読む方が変わっているかもしれないです……」
俺はぽかんと口を開けた。古本屋のイメージが一気に崩れてしまった。なんというか、聞いてはならないことを聞いてしまった気分だった。
「とにかく重い本を大量に運びますから、運転免許は絶対に必要なんです。当面の間、買い取りの査定や本の値付けはわたしがやりますから、五浦さんは指示に従っていただければ……」
なんとなく押し切られそうな状況にはっと我に返った。
「で、でも……もっと向いてる人がいるんじゃないですか?」
「五浦さんは本の話を聞くのが苦ではないとおっしゃってましたよね?」
「え? は、はい」
「わたし、本のことになるといちいち話が長すぎるみたいで……前にもアルバイトの子が耐えきれなくなって辞めてしまいました。ちゃんと付き合って下さる方、なかなかいらっしゃらないんです」
話の聞き役ついでに雇うつもりなのか。唖然とする俺の顔を、彼女はすがるような上目遣いで見つめた。潤んだ瞳に頭がくらくらする。その表情は反則だ。
「とにかく、古書店は力仕事が多くて、憶えることが多いんです。うちみたいな小さな店では、お給料も多くは出せませんし……」
結構聞き捨てならない発言の気もしたが、なにも言い返せなかった。本の山に囲まれた彼女は、さらに身を乗り出してくる。今にもベッドから落ちそうだった。
「……こういう仕事は、気が進みませんか?」
ふと、この病院で祖母の口にした言葉を思い出した。
(今でも本を読んでいたら、お前の人生はだいぶ違ってたんじゃないかね)
ここにいるのはまさに本を読み続けてきた人だ。今のままの俺でも別に不満があるわけではない。でも、こんな風に本に囲まれて生きてみたいと、俺も心のどこかで思ってきたはずだ。
それにもう一つ──俺は田中嘉雄のことを考えていた。おそらく、祖母やこの篠川さんのような「本の虫」だ。この街のどこかに住んでいるとしたら、ビブリア古書堂に現われるかもしれない。
「分かりました」
俺は覚悟を決めて頷いた。
「でも、一つ条件があります」
彼女の表情が引き締まった。
「……なんでしょうか」
「夏目漱石の『それから』のことを話してくれませんか? どういう話なのか、できるだけ詳しく知りたいんです」
人の手を渡った古い本には、中身だけではなく本そのものにも物語がある。
俺は祖母の持っていた『第八巻 それから』にまつわる物語を知った。本の中に書かれている物語にも興味がある──しかし、俺にはあの本を最後まで読むことができない。
「もちろん、いいですよ」
力強く頷いた彼女の笑顔から、俺は目が離せなくなった。記憶を探るように彼女は宙を見る。ややあって、柔らかな声が形のいい唇から流れ始めた。
「『それから』は明治四十二年に朝日新聞に連載された長編小説で、この作品と『三四郎(さんしろう)』と『門(もん)』を合わせて三部作とされています……」
そんなところから始めるのか。長い話になりそうだ。俺は一言も聞き洩らすまいと、音を立てないように丸椅子をそっとベッドに寄せた。